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ディベートは嫌いです。

JUGEMテーマ:学問・学校


ディベートは嫌いです。

「議論」というと、ディベートを指す場合が多いそうです。
国会や裁判がそうだからかもしれませんね。

ディベートって簡単に言うと「言い負かし合い」ですよね。

だから、相手の理論の矛盾点を探して、そこを突付いて、突付きまくる。
それで、崩れなければ、
相手の感情を逆撫でして、逆上させ、足をひっぱたりもする。
最もポピュラーな技は「上げ足取り」ですね。
これを使えば「屁理屈」だって、まかり通っちゃう!

そうです!
ちょっと聞いて下さい!(ハッキリいって愚痴です)
先日、小学生が小さな橋の入り口を塞ぐように、自転車を止めていたので、
「そこは道を塞ぐから、もう少しコッチに留めなさい」という趣旨のことを言ったら
「向こうを回れば通れるじゃないか」と。
確かに、少し回れば通れはするのです。
でも、それが道を塞いで良い理由になるのでしょうか?
ディベートだったら、彼の権利と私の権利が争点となるでしょう。
裁判だったら、
彼の弁護士は「バルダに彼を注意する権利があるか否か?」を
争点とするのではないでしょうか。

彼が、道を塞ぐことに反対な人は多いと思います。
しかし、バルダにそれを注意する権利があるのか?
となると、バルダには勝ち目は無いように思います。
すると、結果、彼は道を塞いで自転車を置いたことを、
咎められはしないのです。

私はこんなの屁理屈だと思います。
でも、イマドキの子供は「屁理屈」を知らない。
屁理屈は、頭の柔らかい子供の得意技です。
大人が思いつかない発想で、屁理屈を練ります。
でも、イマドキは、そんな我が子を優秀だと思うのか、
屁理屈はあまり窘められないようです。
「窘める(たしなめる)」も死語ですねえ^^;
それどころか、自分自身が屁理屈を平気で言う大人
(精神的に成熟していうという意味のオトナではなく、
肉体的にある程度の年齢を経て成人といわれる年齢に達したというだけの人)
が、増えたのではないでしょうか?
それが「モンスターペアレンツ」なのでは?

はあ〜愚痴終了^^;
私だって、人に後ろ指さされることもあるでしょうから、
あんまり偉そうなこと言わない方が身のためなんですけどね^^;すいません。


続きです。
そうして、反論できなくなった方は負け。
勝った方の意見が「正しい」として通る。

これって、本当に勝った方が正しいのでしょうか?

確かに、理論に矛盾点があって、そこが反論できなければ、
不完全な理論なのだから、採用できないかもしれない。

でも「理論の矛盾点を突付く」って、
「コンテンツ」だけしか取上げられていないですよね。

裁判で不思議だな〜と思うのは、
「争点」があって、それによって、有罪・無罪を決めたりするところ。

この人は悪いことをしたな〜っと思ってみていても、
「争点」が違うと、それに関しては立証できないから無罪、なんてことがある。

「争点」はコンテンツですが、
「悪いことしたな〜(と感じる)」はプロセスですよね。
でも、今の裁判だと、どうもプロセスは後回しな感じ。

これが、最近の少年犯罪なんかに対する、
多くの人の疑問と不満なのじゃないかと思います。

プロセスをおざなりにしてしまうのが、ディベートの欠点だと思います。

それなのに、実際の議論の場では、相手の足を引っ張るために、
相手のプロセス(逆上したり、うろたえたり)というのを、
自分にとっての好材料として利用する。

私にはディベートってそういうものに見えます。
だから、ディベートは嫌いです。
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***休憩室*** | 14:19 | comments(9) | trackbacks(0) |

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- | 14:19 | - | - |

edit

Comment

通りすがりのコメント失礼します。

ディベートは、第三者(聴衆、判定者)を説得する技術です。そのため、揚げ足取りをしたり、相手を逆上させたり中傷したりしても、第三者は見破るし、勝つことはありません。

同様に
・会議で大きな声で話す、どなる
・屁理屈をこねる
なども現実社会で意見を強硬して通すときにみられますが、これでは第三者は説得されませんよね。

現実社会では1対1の議論を戦わせる(第三者が間に介しない)時が多いのですが、本当にディベートを身につけた者は建設的な意見・反論をしていきます。

ぜひ一度ディベートを調べてみてください。
※「ディベート大学」という団体は屁理屈や論証を無視するという傾向にあるようです。この団体以外で調べることをお勧めします。

長文失礼しました。

通りすがり | 2008/10/09 12:37 PM

私は、キチンとしたディベートに出会っていないのかもしれませんね。

なるほど、正しく「ディベート」の技術を使うのは簡単ではないようです。

私がディベートと対比させたかったのは、「カンバセーション」です。

ディベートとの違いは…なんだろう。
ディベートの目的は、互いの理論の正否を問うもの。。。

カンバセーションは、互いの心を汲み合うもの。。。

ディベートには、なぜその人がその理論を言うか、という心を汲む必要はないのだと思います。
…でも、揚げ足取りなんかしないで、キチンと理論を戦わせられたら、終わったときは、互いの心に何かが芽生えるのかな。。。

「相互理解」が私のテーマなのです。

「通りすがり」さん、どうぞ、通りすがりなどと遠慮なさらず(遠慮ではなく、かかわりたくないだけ?それは悲しい!)通り過ぎないで、ちょくちょくいらして、色々教えて下さい^^





「ディベート大学」

バルダ | 2008/10/09 1:49 PM

あれれ?
カンバセーションではただの「会話」?
コンセンサスが正しいのかな?

私は、私の思うところを書くのですが、
それが必ずしも、正しいということではないと思います。
どかにでもある意見の一つで、
しかも、勘違いや不完全さや誤りもある。

怖いのは、こうやって表に出すことで、
「誤りを鵜呑みにしてしまう人もある」
ということですね。

ですから、反論をいただいたくと、考え直すチャンスになるし、訂正してもらったりすることは、
不完全さや誤りから遠のくので、とても助かります。
皆さん、ありがとうございます。

バルダ | 2008/10/09 1:57 PM

 こんばんは。
私も「ディベート」にはバルダさまとほとんど同じ感情を持っていました。

私が初めて、「ディベート」という言葉を知ったのは、あの
「地下鉄サリン事件」を起こした宗教団体の広報担当だった
男性がマスコミに頻繁に出だした時でした。
そのときの相手の言葉や理論の隙をつく論法は「建設的な論議を言い合う」ことに耳慣れていない身には、まさしく「言い負かし」としか感じられませんでした。
 多分、その時のTVで彼の理論を聞いていて、同じような印象を持ってしまった人も少なくないのではないでしょうか。

 その後、どこかの大学などで、ディベートのクラスを設けたり、「ディベートクラブ」などで技?を競っている高校などもあると聞きました。
議論ベタと言われる日本人が、感情的にならずに建設的な意見・反論をできる習慣を身につけるのはいろいろな場所で役立つと思います。
 でも、「理性的な意見・反論」が必ずしも正しい結果を導き出せるのか・・。
いえ、その為の「ディベート」なんですね。
失礼しました。

kihiro | 2008/10/09 10:34 PM

たびたび通ります。。

>バルダさん
返信ありがとうございます。
あくまでディベートは議論をする技術の1つにすぎませんし、バルダさんがご指摘の通り直接対話(カンバーセーション)のほうが相互理解を深くとれると思われます。

相互理解からは少し離れてしまうかもしれませんが、ディベートの競技では、ある論題について肯定側と否定側で試合を行いますが、肯否どちらのの立ち場で試合をするかは直前までわかりません。よって、両方の立場の準備を行うことになります。
この過程を通ることで、両方の立場から物事をみることができますし、より自分の考えを深くすることにつながります。
これは相互理解への第一歩になりえるのでは?と感じました。


もしご興味がありましたら中高生がディベートで競い合う「全国教室ディベート連盟・甲子園」のHPをお勧めします。(http://nade.jp/


>kihiroさん
こんばんは。
最近大学の授業や高校の部活動などでディベートに取り組むところが増えてきています。
これは「複眼的思考法」など、物事を複数の視点から見つめるのにもディベートの考え方が教育的に役立つからだと思われます。(ディベートの競技では、肯定側・否定側どちらの立場の議論も行うため。)

某団体の広報ですがディベートの技術を身に着け、悪用していました。ところがとある女性の論者が、論理的に適切な質問・反論を行ったところ、彼は言葉につまってしまったそうです。
逆の見方をすれば、論理的な思考法を身に着けることによって、相手の論理の飛躍などを見破ることができると思います。


長文失礼しました。

通りすがり | 2008/10/10 2:13 AM

はじめまして。
上の方同様ただの「通りすがり」に過ぎませんが、タイトルに興味を惹かれてお邪魔してみました。

さて、文中に具体例として挙げられたケースの場合、「公共の利益(を守るか損ねるか)」という論点がブレると、仰るように

>彼の権利と私の権利が争点となる
>「バルダに彼を注意する権利があるか否か?」を争点とする

という個人対個人の問題に矮小化されるでしょうし、もしも「わたし」が被る不利益>「みな」が被る不利益、という考え同士の(ようするに同レベルの)主張であるなら、おそらく想定なさった結末に落ち着くのでしょう。

ただ本当にそれが(ご自身のエゴに基づく不愉快な感情が)注意する行動の動機だったのかどうか、です。
「何のために/誰のために」注意したのか、注意「しなければならなかった」のか。
その一点さえブレなければ枝葉末節に振り回されることもなく、「私」と「公」の未分化による混乱も生じない気がします。

それから、私もディベートは「屁理屈」や「言い負かし」とは違うものだと考える一人です。
ただし学校教育に取り入れる場合は相当慎重にやらないと、子供たちにそのような安直な理解を植え付けかねない、とも危惧してます。
一つの考えや意見に固執せず、様々な意見の側にかりそめにでも立つことで、人や物事を多角的に見ようとする訓練でなければ、そもそも実施する意味がないばかりか害毒となってしまう。
子供に及ぼす影響を考えるとまずディベートありき、では駄目でしょう。
真っ先に確立すべきはコモン・センスやモラルといった社会と自分との関わり(社会と個人の密接な関係性)についての正しい認識であろうし、本文中に挙げられた社会問題にしても原因の根は同じではないかと見ています。

haruki | 2008/10/10 3:48 AM

通りすがりさん、kihiroさん、harukiさん、
ありがとうございます。
ちょっと、今回の前進は大きいです!
長くなりそうなので、新たな記事に書き起こそうと思います。

通りすがりさんも、harukiさんもどうぞ、通り過ぎないで^^;
ちょくちょく、ホントに、いらして下さい。

あ、まさか、kihiroさんは通り過ぎないですよね〜!?^^

これからも宜しくお願い致します。

バルダ | 2008/10/10 6:05 PM

日本にはディベートは通用せず!ハッキリ意見を述べる事とアゲアシ取りは異なる。ただ嫌な奴でしかないし諸外国が日本を見習えー

プライマル | 2012/02/28 1:44 AM

これまた古い記事で^^;
ディベートに関する考え方は、私も大分変わってきています。
個人のパーソナリティを問わない、純粋に議題について語り合えるような…そういう社会を作っていかなくてはならないだろうな〜と思います。
私はマイケルサンデルの取り組みが好きです。

バルダ | 2012/03/29 11:50 PM

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