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ディベートを考える。

JUGEMテーマ:学問・学校


教えていただいた「ディベート大学」
「ディベート甲子園」

私が「ディベートは嫌い!」と言った時、
私の心にあったモノは何だったのか?

ディベートはそういうものではないと思いますよ、
と教えていただいて、私の中で何が起こったのか。。。

僅かな時間ですし、体験したわけでもなく、ちょっとコメントいただいただけです。

でも、とても「理論的」「論理的」「理性的」ですよね。
バルダの書くものを「論理的」なんて言ってくださる方があって、
それは「うれしい」と思う反面「でも違うだろうな」とは思っていました。

ディベートに関していただいたコメントこそ、
論理的・理性的であると思います。
削ぎ落としたシンプルなパーツが淡々と積まれていく感じ。。。
説得力を感じました。

さて、私は、上げ足取りや言い負かし合い…と
否定することで何を守ろうとしていたか。
「(私の)感情を切り離して正否を問う為だけに議論されるのではないか?」
という不安を抱いていたことに気付きました。
まだ、詳しくは読めていませんが、
面白いなあ〜と思ったのはこのページ

A級戦犯の問題は、私もずっと疑問でした。
靖国参拝は内政干渉ではないか?とも思っていました。
だから、読んでいてこういう議論は面白いです。

高校生が、攻守交替して議論し合う姿もテレビで見た記憶があります。

これは、面白いですね。
将棋を指していて、途中から、将棋盤をくるっと回しちゃったみたいです。

そうそう、ディベートって、将棋のようだ、と思いました。

私が知っているディベートらしきものの、記憶の糸を手繰ってみたのです。
「朝まで生テレビ」とか、「国会中継」とか「太田総理」(←これはどうかな?)とか。。。

私などが目にするのは、そんなものかな〜と思うのですが。。。
「朝まで〜」の麻原ショウコウとか見ていましたね。
でも、宗教のことを知らないと「へ〜」と思うばかりで、
反論を聞けばそれも「へ〜」だし、結局、「あ!突っ込まれて逆上した!」
とか、そんな風にしか見ていなかった気がします。

でも、国会中継はとても面白いものを見ました。
「姉歯問題」の時の民主党・馬渕議員です。
面白いと言う言葉は良くないかもしれません。
耐震偽装問題自体は、大変な問題ですから。

私がここで言いたいのは、馬渕議員のヤリトリです。

一つの事柄に対して突っ込む「●●なのをご存知ですか?」
すると、自民党が「■■と把握しております」
(なんだ、ちゃんと知ってるじゃないか)
すると、馬渕議員は待ってましたと■■では認識不足であることを述べる。
(へえ〜そうなんだ、それは、いけないなあ)

とにかく、自民党がどんな返答をしようとも、
切り返す準備があって、驚きました。
そして、綱引きの綱が手繰られていくように、
ジリジリっと、馬渕議員の主張が、その場の空気を圧倒していくのを感じました。

あくまでも、あの時のヤリトリが面白かったというだけですよ。
何が正しかったのか、私にはまだちゃんとは分かりません。

ただ、議論というのは詰め将棋のようだな、と思い、
その為の説明は私のような素人が聞いても案外と分かり易いものなのだな、
ということでした。

そうですね、ディベートをするには、
その議題について、かなり色々ちゃんと知らないとだめですね。
だから、ディベートをすると色々知識を得る…なんて書いてあるのですね。

何より、面白いと感じたのが、
攻守が入れ替わったり、何手か先まで予測していることです。

これって、「相手の立場に立って」考えることですよね。
相手だったら、どうするか。。。
こうかもしれない、ああかもしれない…
では、その時は、こうか、ああか…。

とにかく、自分の言いたいことをいかに言おうか、
ということばかり考えていてはまるっきりダメですね、きっと。

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***休憩室*** | 23:56 | comments(9) | trackbacks(0) |

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edit

Comment

こんにちはバルダさん。

あのまま書きっ放しは無責任かとも思い、もう一度立ち寄ってみました。

コメントに関しては、よく存じ上げない場に部外者があまり出しゃばっても、との躊躇があったんですが、前回言い落とした点もあり、またお誘いの言葉にも勇を得て、再び書き込んでしまってます。

私には以下の一文が今回の記事中で特に印象に残ったのですが、それはもしかすると衒いなくご自身の本音を明かされた箇所だからかもしれません(読み違いでなければですが)。

>「(私の)感情を切り離して正否を問う為だけに議論されるのではないか?」
という不安を抱いていたことに気付きました。

前述の「言い落としたこと」とは、
ディベートによって下される優劣の判定、その基準はあくまで審査する側にどれだけ説得力を感じさせたか、のバロメーター的意味合いでしかなく、しかもその場限定の効力しか持ち得ないのだと、一歩引いて冷静に眺める必要がある、とここまで云い添えるべきだったと後から思い至ったわけです。

また全ての問題に対し二者択一的に明快な解答が得られるほど、現実の社会や個人は単純ではないし、しかもその程度で解決可能な問題であればそもそもディベートの材料とはなり得ない、という面白い矛盾も孕んでいたりする、ゆえにディベートの真価はむしろ結果よりそのプロセスにある、と私は捉えています、ということも。

また一方で、ご指摘の(引用した一文の)
「(私の)感情」と「議論」を「切り離す」ことについては、逆にそうしないと互いに感情のぶつけ合いにエスカレートして収拾がつかなくなるのでは、と思うのですが。
前述の通りディベートに関してはあれは仮の(その場における)判定ですし、またたとえ(最初の関連記事にて例として出された)裁判であれ、被告への情状酌量を考慮した判決の事実も考え合わせる時、バルダさんが感情を切り離される「不安」を抱かれるという具体例などお聞きしてみたい気もします。いったい誰があなたを正否で裁くと思われるのか。正直(ごめんなさいね)今もよく分からないので。

haruki | 2008/10/11 5:52 PM

ありがとうございます!

一つでも記事を読んでくださったら「部外者」なんてことはないと思います。
問題は、私がharukiさんのコメントをキチンと読めているかどうかです。トンチンカンな事を言っていたら「理解出来ていない」と判断して下さい。
それでも、面白いと思えるようでした、お付き合い下さい。
よろしくお願いいたします。

>ディベートによって下される優劣の判定

これは、ディベートの「大会」を指すのでしょうか。

国会とか裁判は、結果は出さなければいけないですよね。。。

もし、ディベートの大会が、そういったものならば、私は素敵だなと思いました。とても人間的だと安心しました。

>ゆえにディベートの真価はむしろ結果よりそのプロセスにある

これも、いいなと思いました。
「優勝」も大事ですが、自分の財産になるのは、どんな稽古をして、どうやって試合をしたか、だと思うからです。

>互いに感情のぶつけ合いにエスカレートして収拾がつかなくなるのでは、と思うのですが。

そうなんです。だから大概は「議論」未満で、「私は違うと思う」というのにも、勇気が要ります。信頼できる、と思える相手にでないと、言えないですね。それ以上に「NO」と言われて、自分が逆上しないという自信も…ない、ですね。

ただ、体験学習で、感情のぶつかり合いになることはありませんでした。終了後に深く沈んで、自分の行動を振り返ることはありますが。

>本音を明かされた箇所

よくぞ、気付いて下さいました。
そうなんですね。これは、とてもあり難いフィードバックだと思います。

「感情を切り離される」ということに生理的ともいえる不安があります。感情を切り離すこと=自分の本体を切り離されるような、不安を感じます。
勿論、感情の暴走を良しとは思っていません。
むしろ、いかにコントロールすべきかを楽しんでは、います。

>いったい誰があなたを正否で裁くと思われるのか。

そうですよね〜、理屈では頷けるのだけど、そして、案外と議論を楽しめそうな気もするのですが…なんなのだろう。。。


http://das-musical.jugem.jp/?eid=1019#comments

ここで、まどれーぬさんが下さったコメントのことを思いだしています。
私の返信は、どこかトンチンカンなのですが…
まどれーぬさんの、バルカン星人と地球人のお話が気になっています。

結局なんの答えにもなっていないかorz

バルダ | 2008/10/12 2:57 AM

バルダさんこんにちは。

いえいえ、こちらこそ文意をきちんと読み取れているかどうか、お返事によって確認しようやく胸を撫で下ろしてるような状況ですから、どうぞお気になさらず。
それで続きはその辺りに関する個人的な言い訳とも読んで下さって構わないのですが、

部外者、という表現は私が私自身にそうでありたい(またあるべきだろう)と考える相手への配慮から生じる概念といいますか、まあ理想としてはある程度ロムするなり過去ログ読むなりして、その方の個性や場の方向性など大体の感触を掴んでから対話に臨む方が、より相手への礼を失する可能性も減るだろうし、やり取りの流れもスムーズに運ぶだろう、との現状との比較において使用した「ごく個人的な」自己の立ち位置に関する感覚でして、
むろんその自覚込みの発言なので当然ではあるんですが、殆どの場合受け入れ側の方々の反応が「あなたは(一度コメントされた以上)部外者なんてことはありませんよ」となるのも(私の経験の範囲内ではとお断りしながら)既に存じてはいるのです。
このようにたった一つの単語に対しても人により、またその時の立場により、それぞれのイメージが無意識に言葉に付加される、かように言葉とは、いえ言葉を使う人間とは、複雑繊細であり、そこが他者との対話のスリリングな面白さにも繋がるのでしょうね。少なくとも私は面白いなと感じます、こういう微妙な、言葉に込めた意味合いの温度差(というのかな)は。


>「感情を切り離される」ということに生理的ともいえる不安があります。感情を切り離すこと=自分の本体を切り離されるような、不安を感じます。

実を申しますと、バルダさんの最初の関連記事(「ディベートは嫌いです」)に目を通した時から(偉そうに聞こえたらごめんなさいですが)多分そういうことかなと読んではいました。
その時からすでに「(私の)感情」が「切り離されて」「正否を議論される」ことへの「生理的な不安」を訴えておられると、つまり一番仰りたいこと、世間に(ブログを通じて)意見表明したい主旨は、その最初から一貫しておられるのだなと感じておりました。


>>いったい誰があなたを正否で裁くと思われるのか。

>そうですよね〜、理屈では頷けるのだけど、そして、案外と議論を楽しめそうな気もするのですが…
なんなのだろう。。。

ああそうか、私が質問の形にしたからそう返されたんでしょうね、ですが、うん、本当はこれは、他者と議論する類のものではないんですね。
その「なんなんだろう・・・」との疑問には自己の内面を探る手段として自問自答を繰り返すことによる以外、何がしかの光明(そういうことだったかと腑に落ちる感覚)は得られないように思います、というのも、それは私を始めとする他者の入り込む余地のない、バルダさんの個人的な領域に属する(そこでしか進展の糸口はつかめないと思われる)問題だからです。

私の最初のコメントの前半部分を覚えていらっしゃいますか。あの「私」と「公」を意識的に立て分けて考える、思考する必要を述べた箇所は、実は「感情」と「理性」のTPOを踏まえたバランスの話でもあるわけです。
自転車で道を塞いだ子供を注意した、が彼は聞き入れず反発を示した。それに対して腹が立った。これは感情ですね。
それで、大事なのはそこから先の「なぜ腹が立ったのか」と自分自身を冷静に振り返る作業だと思うんです。
個人的な不愉快に由来する感情、それもあるでしょう、しかし突き詰めると注意した動機の根源にあったのは、身勝手な個人による社会モラルの逸脱を正したい、というお気持ちではなかったでしょうか。
これは理性ですね。より善き状態に近付くよう志向する理念や意思の領域です。
だがそこに「(私の)感情」が未分化のまま混同されるとどうなるか。
その子供はバルダさんの怒りの種類を瞬間的に察知して、「この人は”自分にとって”邪魔だから怒っているのだ」と受け取るのではないでしょうか。
だから「この人が道を迂回すれば済むことではないか」、と即物的に了解してしまう。
そうではなく(特定の個人の問題に留まるのでなく)「ここを通る人たち皆に迷惑を掛けている」現状に気づかせないと、「文句を言ってきた人」と「僕」という2人限定のトラブルとして処理されてしまう。そういう納得の仕方をしてしまう。
よくあるエピソードとして、電車で我が子の行儀の悪さをよその大人に注意された時、その親が「あのおばさん(/おじさん)が怖いから(怒ってるから)」という理由で叱った、なんて話を聞きますが、これも「公」の場で求められる「理性」の問題を、「個人」の「感情」の問題に矮小化することで、本質をズラし子供に誤った「教育」をしてしまう例だと思います

haruki | 2008/10/12 4:35 PM

※途中で切れてしまいました、続きです

ある種の意見なり主張の「内容」と、そう主張する「個人」とは、別なのですから、もしその「内容」に反論がきたとしても、それは決して「個人」を否定するものではないですよね。というのも意見や主張というのはある特定の個人の所有物ではない、誰でも共有自由なものだからです。
それに対し「感情」は個々人の先天的資質であり、ある程度の共感はできても完全なる共有などできないその人だけのオリジナルでしょう。
よって「感情を切り離す」という発想自体(自分のであれ他人のであれそんな離れ業は)現実には有り得ないことのように思います。
たとえば、誰かがある人の感情を切り離そうとするその行為もまたそうしたいと望む感情から発してるという風に。誰ひとり「感情」から逃れられる人間などいないのではないでしょうか。
否定しようが無視しようが感情は元々そこにあるのだから、完全に無として消し去る事などまず不可能でしょう。生きて意識がある限りは。

そう考えると、肝心なのは感情と理性との兼ね合いでありTPOに柔軟に対応した両者のバランス、ということになりますよね。
議論の際には感情を完全に切り離すことは出来ずとも、抑制することは可能ですし、どうせいくらそのように努力しても
感情は無意識に入り込んでくるのだから、せいぜい努力するくらいで丁度いい塩梅になる、くらいに構えた方がいいかもしれません。これは私自身が常日頃から意識的に自分に言い聞かせてることでもありますが。

レスが前後しますがディベートのこと、一応想定したのは仰る通り。ですが例として出された国会にしろ裁判にしろ同じことだと思ってます。
選択された結果とその選択の正しさとは、これまた別の話だからです。
歴史をざっと振り返っても(まあ現代でもいいんですが)誤ったと看做される選択の事例には事欠きませんし、またどこに正誤のラインを引くかも難しく、どちらと断定できかねる、というのがむしろ多いのかもしれない。
つまり「結果」と「その内容」の優劣は、時として相容れない場合もあると認識することが必要だろうと思うんですね。長期的視野で検証した場合どうなのかとか、その場で最良だと思えた選択が常に不動とは限らない、ということですね。

ああそれから体験学習のお話しがありました。私が思うにそれと議論とは本質的に違うもののように感じます。
その根拠として体験学習は個人個人の内面を対象とする(のですよね)に対し、議論で個人を対象にすることはまずない、というのが一点、もう一点は体験学習の場合は自ら進んで(望んで)自己の内面に向き合う作業を積極的に行うのに対し、議論で感情を剥き出しにする行為は、通常は流れの妨げになるとしてあまり奨励されない(感心できる行為ではない)とされるからです。
ようするに両者はその目的がまったく異なることからも「感情」面からの比較対象には相応しくない、ということではないでしょうか。

思いのほか長文になってしまいました。それでもまだ言葉足らずの感はありますが、とりあえずこの辺で。

haruki | 2008/10/12 4:46 PM

こんなにも丁寧に、私のモヤモヤとしたモノを整理してくださってありがとうございます。

>他者の入り込む余地のない、バルダさんの個人的な領域に属する(そこでしか進展の糸口はつかめないと思われる)問題だからです。

これは「天上天下唯我独尊」ですよね。
自分に問うしかない。「個」に不用意に踏み込みません、傷つけません、という感じがしてホッとしました。

ただ…「ディベートと感情に関する」自己概念が崩されようとしている、認知的不協和の状態のだから、今の私は苦しい。。。


「自転車」の件、まさにそのとおりです。
子供だからと侮る気はありません。
「こんなトコロに置いてまったく〜!」という感情は、絶対伝わる、それは承知しているのです。
だから、大人に向かっては言わないのです。
相手が子供だから高圧的になれると見込んで言うのか?
全く無いとは言えないですけど、
子供が「自転車の置き方を教えられていない」ことに気付いてしまったから。
「教えなければ」というお節介。教えてもらえない子供は不幸だ、と思うので。その割合の方が高いです。
しかし、「教えられたくない人」から押し付けられたら、子供だってそりゃあ反発するでしょう。
とうことも承知している。
だから、手短かに済ませたい気持ちではあるし。。。議論したくない(←たどり着きました)

私は、最初に記事に「愚痴」として書いた時に、反発された後のことを書きませんでした。
私の判断について「突っ込まれる」のが怖かったからです。
怖いというのは、その是非を問う議論に発展するのを避ける為です。

今の私が「安全」な状態でいられるのは「自分の主張を述べる」というところまでです。
「異なる意見を受け入れたい」ということは、度々書いていますが、「受け入れたい」であって、受け入れているのか?常に不安です。
まして、そこに「違うと思う」という新たな展開がやってくることは、ちょっと恐れています。

>両者はその目的がまったく異なることからも「感情」面からの比較対象には相応しくない、ということではないでしょうか。

体験学習については、学問的に説明できていないですよね。
ちゃんと説明できないのは、あまり良いことではない気がしてきました。

ただ、ディベートも体験学習も、目的は「日常」「リアルな現実」、つまり毎日の生活に役立たなければ意味がないと思うのです。

こんな実習がありました。
コンセンサス討議…で良いのだと思います。

与えられた課題に対して、グループで全員一致の答えを出さなければならないのです。

それは、こんな課題でした。
「核兵器による地球滅亡の日、
10人だけが入れるシェルターがある。
候補者は以下の20人。
この中から、10人を選べ」
というような。10人とか20人という数字は若干違うかもしれません。
候補者は、年齢性別職業など簡単なプロフィールがあります。
年齢は様々、職業も様々です。

この課題の時、私以外のメンバーは早速、人選を始めました。
生き残るのに相応しい職業・年齢は?って感じです。

でも、私は全く違うことを考えていました。

私は、核兵器で人類が滅亡するのであれば、シェルターなど利用せず、滅亡すべきだ、と。

それは、1回だけ言いました。
でも、すぐに皆に説得されてしまいました。
というか、自分の主張を上手く説明する自信がなかったし、
多勢に無勢で孤軍奮闘するのは面倒そうだなあ、と。

つまり、議論になるのを避けたのです。
自分の人生観なんかも話さなければならなくなりそうに思えたし。。。(それを見越した課題だったようです)

体験学習では、その時「何が起こったか」を問うのですが、私は、自分の人生観を否定されるのを恐れて、議論を避けた。
これが、今思い出してもちょっと悔しいのです。

自転車で道を塞いだ子供に「お年よりや目の不自由な人もいるんだよ」と教えられなかったことの後悔があります。

議論のテクニックがあれば、怖がらずに議論が出来るのかな?

無闇に怖がらないことが、むしろ「感情」の問題を解決できるような、気がしてきました。。。

バルダ | 2008/10/14 1:24 AM

こんばんは。

さて困った、というのが今の率直な感想だったりします。

ご自身の問題と密接に絡んだ話の展開のゆくえに、どうしたものか・・と頭を抱えている状態です。といいますのも
私としてはなるべくやり取りの内容を「一般論の範囲」に収めておきたいのですが、どうも受ける印象として、そのような展開は望まれてないように思われるので。

何といいますか、その、ことごとく個人の個別のお話しに収束してしまうのですよね、うーん、
これは対応が非常に難しいです。どこまで踏み込んでいいものか判断がつきかねます。

個人の、それも内面に関わるような内容は、取り扱いに最大限の注意と配慮を払わねばならないデリケート極まりない代物だと思う私には、それによって些細な失言も許されないとの極度の緊張を強いられもするし、
だから要はどこまでの対話を望まれているか、だと思うんですね。
このやり取りの主役はバルダさんなのですから。

もちろん忌憚なき意見や見解を述べることは可能ですが、文章の端々にそれは嫌だという拒絶の身振りが窺えますし、しかし、かといって一方では、何となしの期待も仄見える。

お気持ちの中にややこしい混沌やら葛藤やら迷いやらが渦巻いていて、それが「怖い」という反応を引き出すのかもしれない。

ああいけない。どこまでの発言が「許されるのか」まだ不明なのでした。前言取り消しです。

このようにテーマが人に向かうと、一々言葉を選ぶのに普段以上に慎重を期さねばならないのですが、これが議論だと個人の内面ではなく物事(の是非)に向かうので、このような神経の使い方はしなくて済む分、楽かもしれません気分的には。

>ただ、ディベートも体験学習も、目的は「日常」「リアルな現実」、つまり毎日の生活に役立たなければ意味がないと思うのです。

それはもちろん。
しかしこの手の定義はいわば「人生の目的は何か、それは幸福の追求にある」といった類の最終目的的な大きな括りであって、結構何にでも言えてしまうのですね、
だからあまりこの場合の比較には適当ではないように思います。
繰り返しますが議論(ディベート)で個人の感情や内面を扱う事はまずありません。
しかしご紹介の体験学習では、個人の内面的なものをあぶり出す(そしてそれを本人に自覚させる)のが目的ではないのですか。少なくともご説明を伺う限りにおいてはそのように思えます。

>自分の人生観なんかも話さなければならなくなりそうに思えたし。。。
(それを見越した課題だったようです)

積極的に自分語りを「させる」など、通常想定される議論の場合はあり得ないです。
議論ではとりあえず物事の是非を決定する、白黒をつけようとしますが、体験学習は一見そのような議論の形を取りながら、その目的は個人の内面(の確認作業?どこを直すべきとかここが良くないとか)にあるように思います。


ちなみに

>「核兵器による地球滅亡の日、
10人だけが入れるシェルターがある。
候補者は以下の20人。
この中から、10人を選べ」

もし私がこんな設問を受けたら、

(ほんの戯言として聞き流して下さいと前置きした上で)

その途端にテーブル引っくり返して(←これは嘘)帰るでしょうね。
「一生やってろ!」とか捨て台詞残して。←これも冗談(半分は)

というか、そもそも行かないと思いますそういう場には。自分の興味の範囲外なので。
(別に他の方はどうでもいいんです、良いとも悪いとも批判なんぞしません、当然です、それはその人の問題であり選択ですから)

haruki | 2008/10/14 9:19 PM

慌てて書かず、ちゃんと読んでコメントすべきと思うのですが、とりあえず。。。

いえ、実は、自分で前のコメントを書いていて「イカン」と思って追記しようと考えていたのです。

そうなんです。
一般論としてのディベートとはこんなものですよ、と話してくださる、その例題として私が挙げた体験を使われている…それは、私が理解しやすいように、なんですよね。

それがですね〜、harukiさんから頂いたコメントが、体験学習で受け取る、とても上手(という表現で良いのか)なフィードバックと同じなのです。
私にとっては「欲しいフィードバック」をもらっちゃった感じなんです。
だから、自分の混沌とした気持ちを振り返り易くて、そこを整理したい気持ちで一杯になってしまったのですね。

…と、整理のついた話したいことについて話すのは抵抗が無いのですが、これから起こるかもしれないことには恐れがあって「言って欲しいけど…でも言わないで」みたいな^^;変なことになっちゃってますね。

harukiさんのコメントで心が傷つくことは無いように感じます。それがディベートならば面白そうだな〜と思います。テクニックというより、心構えなのでしょうか。
どこからだと「個人の領域」に踏み込むか、ちゃんと分かっていないといけないですね。

私は、カラテでも、体験学習でも、なんでも日常に持ってきたくて仕方ないのですね。

>体験学習は一見そのような議論の形を取りながら、その目的は個人の内面(の確認作業?どこを直すべきとかここが良くないとか)にあるように思います。

「直す」とすると、自己啓発セミナーになってしまうのです。
「気付く」だけです。
自分が怒っていることや嫉妬していることに気付かない人も多いのです。

日常の簡単なテーマでの会話でも、ディベートの心構えで話す人と、私のような話し方とが「議論」すると、何かが妙にすれ違って変な会話になるのでしょうね。
そこに、ケンカの原因があるのかな?なんて考えていました。
私のようなスタンスだと、「個人の領域」には踏み込まれていないのに、踏み込まれた〜って思ってしまうのかも。。。

ロムしてる皆さんはいかがですか?^^

バルダ | 2008/10/14 11:39 PM

私が書くと、体験学習の場がとてもベタベタした感じのようですが、多分違うと思います。
徹底した「個人主義」なのだそうです。
「個の自立」が第一で、介入はしません。
最初に習ったのが、以下の「詩」でした。
『ゲシュタルトプレイ』とか『ゲシュタルトの祈り』と訳されることが多いように思います。

I do my thing,and you do your thing.
I am not in this world to live up to your expectations.
And you are not in this world to live up to mine.
You are you,and I am I.
And if by chance,we find each other,it's beautiful.
if not,it can't be helped.

by Fritz Perls(1893~1970)

以下は、一般的な日本語訳だと思います。

『私は私のことを成し、あなたはあなたのことを成す。
私がこの世にあって生きるのは、あなたの期待に応えるためではなく、
あなたもまた、私の期待に応えるために生きるのではなく、
あなたはあなた、私は私。
しかし、私たちが心を共に触れ合うことができれば、
こんなに素晴らしいことはない。
でも、たとえ、心が触れ合わなくても、それはそれで仕方のないこと。

by フリッツ・パールズ』

バルダ | 2008/10/15 2:02 AM

私がゴチャゴチャにしている「議論」ということを、まず言葉=意味から調べていこうかな、と思います。

http://iwatam-server.sakura.ne.jp/software/giron/giron/index.html

http://iwatam-server.sakura.ne.jp/software/giron/giron/x20.html

…そういえば、小学校の学級会では「正しいと思う意見に投票する」ということがとても自然に出来ていた気がします。
意見を言った人とその意見はくっついていませんでしたね。
学級会の決定が、その後に遺恨を残したことも無いように思います。

バルダ | 2008/10/15 2:48 AM

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