すっごく難しいですよ、脚本が。
そもそも、遡っていくのだから、結果は先に出ていて、
「なぜそうなったの?」ということだけが「過去」に場面転換した時の主たる興味となる。
謎解きがポイントとなるのに、
いざ、語られてみると、大した謎じゃない(私にはそう思えました)
「ああ、そうなのね」と思うレベルの過去。
知合いの打ち明け話を聞いて、本人は重大な秘密のつもりでも、
「ああ〜あるね〜そういうことって」って
サラーッと流されて、
意を決して告白した本人はちょっと残念な気持ちになってしまうような程度の出来事。
そりゃあ、人間の人生だから、簡単なことなんかない。
でも、芝居で、人をびっくりさせるとか、引き込ませるには、
もう少し「意外性」というのだろうか?
「え?どうして?」という位の驚きが起らないと、へ〜〜で終わってしまう。
しかも、過去に向かって、どんどん謎が解かれて、
平凡になっていくので、ある意味、テンションが下がり続ける。
山がない。
オープニングの独白がピークで、若返る程に平凡になっていく。
ジョーは誰が生んだの?
というのも「ああ、そうなんだ」で納得出来てしまった。
脚本家の意図とはずれてしまうのかもしれないけれど、
幕が降りた瞬間、え?これで終り??
最後は、また老人が出て来るよね???出て来て〜〜〜!
って思ってしまいました。
もっと、膨らませることが出来ると思う。
鉄太郎は大谷さんの方が面白かったのではないか?
深沢さんは、声が高い。
とてもキレイな声で大好き。
だけど、男性と女性を演じ分ける時、ギャップが少ない。
ジュンの生涯は起伏に富んでいてとても面白い筈だ…
でも、サラーッと「へえ、そうなんだ」で流れてしまう。
ベニーもミミも…
芝居の場面の中が「説明」で終止しているからではないだろうか?
演じている場面では、これといった「事件」「ハプニング」「ドラマ」が起らない。
…実際には起っているのかな?
でも、へ〜で納得してしまうのはなぜだろう??
…私、物足りなかった…と言ってますね。
うん、だって三軒茶屋婦人会を観に行ったのだから…
少々のことでは満足するワケにはイカナイ^^;
私が、三軒茶屋婦人会に期待した、三人の老女のイメージは、
この『カトレアな女達』のようなものだった。
とにかく、紅姉妹のチラシがカトレア…なんだもの。
で、実際の紅姉妹も、普通の平凡な女性達ではないハズ…
なのに、終わってみたら、普通の女性の物語になっている。
普通の女性の物語でもいいけど、
それなら、普通の中にあるドラマを見せて欲しい。
普通でない女性の平凡な物語…だったような気がする。。。
ただ…終演後、ちょっと私自身はスゴイな、と思う体験をしました。
「感覚が研ぎすまされる」というのでしょうか。。。
結構年配のご婦人が多かったです。
お友だちといらっしゃった方が、ドアの外で「アッチかしら?」なんて話している。
「リアル紅姉妹だ〜〜」と内心密かに思う^^
その後、街を歩くと、
人々がもの凄くリアルに生活感を漂わせていることに気付く。
私、こんな風に「人」を感じたことがあるだろうか?
映画のスクリーンを通して、監督が見せる「生活感」のように、
私のいつも使っている普通の眼球が、
何か詳細な解像度を持ったレンズのように、
ひとりひとりを浮かび上がらせる。
…きっと、篠井さん達は、「この眼」で、いつも暮らしているんじゃないだろうか?
ふと、そんなことを思いました。